これまでの貨幣論まとめ(寄稿コラム) | 批判的頭脳

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創造的破壊を希求し、而して破壊的創造を遂げる。

noteにて、「経済学・経済論」執筆中!

「なぜ日本は財政破綻しないのか?」

「自由貿易の栄光と黄昏」

「なぜ異次元緩和は失敗に終わったのか」

「「お金」「通貨」はどこからやってくるのか?」などなど……


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寄稿先はこちら

ここまで非常に多くの貨幣論ないし貨幣論にかかわるコラムを執筆してきた。今回は、これまでのコラムを総覧しつつ、アナロジーや小噺、補足も交えて再論したいと思う。


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お金はどこからやってくるのか――現代金融制度入門

貨幣論にかかわる最初のコラムである。
このコラムでは、所謂マネーサプライがどのように供給されるか、その際のマネタリーベースの役割は何か、ということに焦点が絞られている。

あっさり言えば、マネーサプライとは、借入による銀行預金の創造として表れる。
マネタリーベースは、そうして生まれた銀行預金の各種流通に際し、受動的に需要されるのである。

例えば、銀行預金のうちの一部が現金として引き出される際に、マネタリーベースは必要になる。
(余談だが、市中の現金は基本的に、借入によって生じたマネーサプライの一部引出としてこの世に出現することになる。マネーサプライは定義上、借入によって生じた銀行預金と、その内から一部引き出された現金―市中現金―の合計ということになる)

また、政府に対する納税を銀行預金で行えば、同額のマネタリーベースが政府に納付される。

そして、銀行預金が銀行間で振替されれば、それに応じたマネタリーベースが必要になる。
ただし、100万の銀行預金の振り替えが起きたからと言って、100万のマネタリーベースが必要になるわけではない。

例えば、A銀行からB銀行へ60万の振り替え、B銀行からA銀行へ40万の振り替えが同日で起きた場合、必要なマネタリーベースは交換尻の20万円に過ぎない。(A銀行からB銀行へのマネタリーベース20万払い込みだけで十分になる)

少し話が逸れたが、要するに、マネタリーベースの存在・生成→マネーサプライの存在・生成という天下り式の構造が存在するわけではなく、マネーサプライの存在・生成から、マネタリーベースの需要が導かれるというのが実際の構図である、と指摘したわけである。
(しかしよく考えれば、このことは当たり前なのだ。というのは、中央銀行とマネタリーベースというのは、歴史上極めて新しいものであって、それ以前から社会には通貨や銀行は存在したのである。だから、マネーサプライがまずあって、マネタリーベースがそれに対して事後的に設定されたのである。尤も、マネタリーベースによる単位集約を受けなければ、この世のマネーサプライはそもそも勘定困難であったであろうが…)


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『通貨発行益を整理する 通貨発行それ自体は収益にはならない』

通貨とは発行者負債であるから、通貨発行それ自体は負債の追加に過ぎず、通貨発行主体にとって金融上の利益はない、というのが話の発端。

「では通貨発行益とは何なのか?」ということになる。これは、通貨発行体による負債の(純粋な)回収として表れることになる。

具体的には、銀行(最大の通貨発行体)の場合は、利子収入ということになる。利子収入は、銀行預金(=銀行負債)の一方的減少を呈する。(返済の場合は、貸出債権と銀行負債が並行して減少するので、通貨発行体の利益にはならない)
実物的に考えれば、通貨発行体としての銀行が得られる経済実物資源は、上記のような金融業によって生まれた純資産の分だけになる。例えば、銀行が経済資源として労働力を利用する場合、報酬は銀行預金の発行という形で払われるのだが、利子収入による純資産形成(利子収入後の貸出債権>銀行預金によるもの)がなければ、銀行は債務超過ということになってしまい、経済資源を持続的に調達できない。(逆に、利子収入=銀行負債の純回収を通じて、応分の経済資源を調達可能になるのである)

また政府とその貨幣(国家貨幣)の場合は、通貨発行益の生成手段は(基本的には)租税である。
通貨を発行し、それによって経済資源を購入した時点では、資産に経済資源、負債に国家貨幣が記帳されるだけで金融上の利益はない。
その後、租税によって国家貨幣を(純)回収することによって、通貨発行分だけの経済的利益を確定させることができる。
尤も、通貨発行益を先取りで勘定しても一応は問題ない。
というのは、通貨発行によって購入した経済資源と、後に租税(政府負債純回収)によって形成される金融上の純資産は、会計上一致するからである。(というか、そうでないと民間は経済資源の引き渡しに応じないのだから、当たり前だが…)
この場合、購入した経済資源をその時点でそのまま通貨発行益として扱っても、(その後も当該政府が存続する限りにおいて)何の問題もないのである。

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MMT集中講義①Tax-driven monetary view(租税貨幣論)と決済ヒエラルキー 
MMT集中講義②Stock-Flow consistent model、『危機の思想 』
MMT集中講義③内生的貨幣供給、そしてJob Guarantee Program 



①では、信用貨幣論(貨幣の本質とは、流動性を持った負債である)をベースに、国家貨幣は租税手段として流通するという考え(Tax-driven monetary view)とそうした国家貨幣の"発明"による財政構造の変革(租税は政府の収入手段ではなく、既発通貨の回収手段であるに過ぎない等)、決済ヒエラルキーの高い負債としての国家貨幣が必要とされる理由(ありていに言えば不確実性)について論じた。

②では、マクロで金融を評価すれば、「誰かの黒字は誰かの赤字」「誰かの金融資産は誰かの金融負債」が成立することを通じて、様々な考察を行った。

③では、通貨が借入を通じて内生的に発行されるとする内生的貨幣供給論を概説した。

MMTの理論は、信用貨幣論を土台に、租税貨幣論(Tax-driven monetary view)、Stock-Flow Consistent model (SFCモデル、金融資産とその変動における一貫的整合的モデル)、内生的貨幣供給論の三つの柱で成り立っており、これを一体的に理解する必要がある。


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齊藤誠のおかしな金融理解


齊藤誠の金融理解、そしてそのついでにリフレ派の金融理解にも逐一突っ込みを入れたもの。

重要なポイントは以下

・通貨発行体の「通貨発行」を「資金調達」と呼ぶのは混乱しか呼ばないのでやめるべき。

・ある名目GDPが決定してから、それに必要な現金量が決定する、というのは事実だが、このことは「ある現金量発行を実現するには、その裏では応分の名目GDP実現が必要である」などということは意味しない。単に過剰な現金発行は超過準備の増加を齎すというだけである。

・齊藤などの経済学者は基本的に租税貨幣論を理解していないので、国家貨幣の本質的負債性を説明できない。このことはすなわち、なぜ国家貨幣が市中の金融資産として機能するのかについて説明できないというのとまったく同じことである。

・そもそも貸出は準備預金を引き出して行うものではないので、「(貸出が生じないので)準備預金が預けっぱなし」という理解は間違い。これに関しては齊藤もリフレ派も同レベル。むしろ準備預金は、マネーサプライの内生的増加に対して、増え得る各種決済に備えて基本的に積み増されるのである。

・「通貨発行」を「資金調達」と呼ぶ論理的混乱のせいで、斎藤誠は「準備預金付利引き上げがどのように信用拡大を抑制するか」を全く説明できていない。ので、本稿では私が代わりにそのメカニズムを説明している。

・国債金利と政策金利を分裂的に扱うという奇妙な行動を齊藤は行っている。MMTからすれば、国債は中央銀行のオペレーション手段に過ぎず、その売買を通じて国家貨幣を一時的に出したり引っ込めたりするためだけのものだ。国家貨幣の調節によって目指しているのは金利操作であり、その必然から当然国債金利は政策金利に収斂する。(正確には、国債金利は将来の政策金利の予想に依存して決定する) だから、国債金利と政策金利は完全に分離して考えることはできない。

『総覧すると、斎藤教授の金融理解には多数の綻びがあるのだが、その綻びの出現元をあたると、「日銀が金融緩和すれば総需要は必ず拡大する」という凝り固まったテーゼを持ったリフレ派の誤謬がしばしば垣間見える。

齊藤教授自体の認識もところどころおかしいのは事実としても、それと同時に、リフレ派の(おかしな)議論に引っ張られて論展開がおかしくなっている部分も見受けられる。』

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『通貨は財ではなく信用から生まれた―信用貨幣と計算貨幣―』

通貨の起源は物々交換ではなく貸借関係にあり、貸借関係を数量的かつ統一的に表せるようになったものが通貨と呼ばれるようになった。

『通貨や、その他の決済手段は、予め存在している財でも、生み出した財でもなく、貸借関係の記述であり、資産・負債の両建てで発生するものである。』

また、記事内ではきちんと言及していないが、決済手段としての通貨と単位としての通貨は、明確に峻別されなければならない。

例えば、通貨単位(つまり、貸借関係の単位計算基準)として小麦が採用されたとしよう。

そして、「小麦5kg分の貸しを労働で弁済させる」「小麦10kg分の借りを自作のリンゴで弁済する」ということが行われているとき、小麦はあくまで単位として機能しているだけであって、決済手段として機能しているのは貸借関係である。もちろん、実物の小麦によっても決済は可能ではあるが、実物の小麦だけが通貨である、というわけではない。

似たことは国家貨幣と銀行貨幣にも言える。

例えば円は、あくまで国家貨幣の単位である。その意味で、「本物の円」というのは、日銀負債(日銀当座預金および現金)でしか存在しない。

銀行預金はあくまで、銀行と非銀行の間の貸借関係を、円を援用して記述したものに過ぎない。銀行貨幣において、円はあくまで単位なのである。

しかしもちろんのこと、単位として円を拝借しているに過ぎない銀行貨幣が、決済手段の主役である。

このことから、単位としての通貨と決済手段としての通貨はしばしば乖離することになる、ということを理解する必要がある。(小麦の場合と違うのは、円自体も租税に依存した信用貨幣であるという点であり、ちょっとややこしい)



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信用創造Wikipediaの混乱 前編
信用創造Wikipediaの混乱 後編

信用創造Wikipedia日本語版を徹底的に批判した記事群である。
すでに紹介した過去コラムから逸脱した部分はあまりないが、又貸しモデルが全く現実の金融を説明できないことを慇懃に説明した名論文「通説的信用創造論の批判的検討」を私なりに解説した後編は是非読み返してほしい。

又貸しモデルは、その内部用語である本源的預金と派生的預金の定義もあやふやであり、内部モデルでは発生した銀行預金が決済手段として利用できず、準備預金の機能と必要性も説明できず、銀行融資の返済すらまともに論じることが出来ない。


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「財政再建は終わりました」をMMT系財政出動派として批判する


これまで挙げた記事と論点が重複しているが、ポイントは以下

・アフロ君自身が租税貨幣論を理解していないので仕方がないかもしれないが、国家貨幣が徴税前借として本質的に政府負債であることを延々と見落としている。統合政府という考えは、国家貨幣の構造理解の上でのみ成り立つのだが、国家貨幣の構造理解を欠いたまま統合政府を論じようとしているので、貨幣を除いて統合政府の負債を評価するなど、奇妙なことになっている。

・信用創造の罠(マネタリーベースを増やしても応分のマネーサプライは増えないという状態)に嵌っているので、マネタリーベースと名目GDPの関係は崩れており、したがって長期不況&量的緩和体制の名目GDPとマネタリーベースを対応的に比較して考えるのは極めてナンセンス。

・政府財政を考える上で、政府債務残高GDP比という指標は、PBと同レベルにナンセンスなのだが、なぜかPBを批判する口で政府債務残高GDP比を利用しており、奇妙である。

・そもそも「政府財政は好転すべき」というテーゼを財政破綻派と共有してしまっており、その時点でナンセンスの極み。


なお、某所のコメント欄で用いたアナロジーが自画自賛ながら秀逸だったと思うので、補足しつつ引用したい。

通貨を他者からの購入手段であると仮に定義づけるなら、小麦農家と漁師だけの経済では、小麦農家にとっての通貨は、漁師に対する債権(漁師にとっての負債)に他ならない。
同様に、漁師にとっての通貨は、小麦農家に対する債権(小麦農家にとっての負債)であることになる。

小麦農家、漁師、牧畜業者の三人経済なら、小麦農家にとっての通貨は、漁師or牧畜業者に対する債権(漁師or牧畜業者にとっての負債)に他ならないことになる。

もちろん、貸借関係ではなく、純資産としての実物資産も決済手段として利用することは原理的には可能である。例えば、保存の効く穀物の俵が、決済&貯蓄手段として行き来することも可能ではある。

しかしそういった貨幣(いわゆる商品貨幣)は、通貨形態のごく一部、というより例外である。

基本的に通貨ないし金融資産というのは、マクロで見たときに実態的に価値のないものが普通である。いわゆる金属貨幣ですら、金属それ自体の価値との対応は怪しく、貨幣史的にも金属それ自体の価値は全く重要ではない。
むしろ貨幣としての金属は、その加工の一定の難しさから、貸借関係の記述として有用であることに価値があったのである。だから素材が多少粗悪になった程度では金属貨幣の価値は揺るがない。(この意味で、商品貨幣と金属貨幣を混同するのは好ましくない)


マクロ的に実物的価値のない通貨(名目貨幣)に資産価値があるとすれば、それが何者かにとっての負債として機能している限りにおいてである。というより、何者かにとっての負債として機能する限りにおいて、名目貨幣は名目貨幣として機能するのであって、何者の負債でもないなら、名目貨幣はそもそも貨幣として機能することすらできないのである。具体的に言えば、誰に対しても購入手段として利用できない。




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